kobutayabutaのブログ

アメリカで、ギルド、ビーに10年参加。

タンブラー


1990年制作

我が家の玄関口(テキサス


マッチ・ア・パッチでは

「シークレット・パル」と呼ばれるシステムも、毎年続けられていました。


新年の初ミーティングで、それぞれの履歴書(?)が配られ、

名前の書かれたクジを引きます。

履歴書には、

名前

生年月日

家族構成

好きな物

好きな色

その他諸々

今なら、完璧に「個人情報漏えい」です。


でも、その情報を元に

クジで引いた名前の人に

一年を通して、わからないように秘密でサービス、プレゼントをするのです。

年末のクリスマスパーティの時

相手が誰であったか、明かすのです。

クリスマスプレゼントと共に。

このシークレット・パルのお陰で

私達は、よりお互いを知り、親しく感じるようになります。

私達は、家族以上に

お互いの事を、知っていました。


ある年末、

ウースラ・オルソンから

「グレタの布を見に行かない?」

グルタは、手染め布を作っていましたが、ビー・ミーティングの時に

売り買いするのは、なんであれ禁止されていました。

そこで、グレタの家に行く事に。

私達は、図書館で待ち合わせました。

ウースラは、主人と来て、主人は、図書館で待っている事になりました。

私の車で、グレタの家に向かいました。

「私、何歳に見える?」

唐突にウースラ。

変です。

私達は、前述のように、お互いの事は

知っています。一瞬、迷いましたが

「70∼75かな?」(本当は、78歳でした)彼女は、嬉しそうに

「じゃ、綺麗?」「充分綺麗よ」

「あのね、主人はクリスマスシーズン、一人で故郷のネブラスカに行くの」

「あら、一緒に行けばいいのに。何か用事があるの?」


グレタの家からの、帰り

「私達これから、ランチに行くの。まこ来ない?」

「うーん、私達は、明日からヨ~ロッパに行くの。準備があるから帰るわ。又ね」

図書館の玄関口で、ウースラの主人は待っていました。

とても、素敵な穏やかな人でした。

二人は、仲良く車に乗り去っていきました。


ヨーロッパから帰って

私が、ビーに行ったのは、

一週間遅れでした。

ショー&テルの途中で、ウースラが、席を立ちました。

「これから離婚調停に行くから、今日は、途中でごめんなさい」

「はーい」みんなは、平然とウースラを送りました。

私は、本当にびっくりしました。

英語が、わからない為の聞き違いかとも。

「あの、私は理解出来ないけど、今、ウースラは、離婚調停って言った?」

「そうよ。まこの聞いた通り。

貴女は、先週来なかったでしょ。先週のウースラは、大変だったの。泣いて、泣いて。私達は、みんな知ってるの」


ウースラ・オルソンは、ネブラスカで生まれ、軍人と結婚。ベトナム戦争の時代日本に駐留していたとか。

どこ?と聞く私に、ウースラは

「日本だったのよ。でも私達は、基地の外には、めったに出なかったから、そこが、どこかは、判らないの。

でも、娘たち二人は、ひな祭りに着物も着たわ。(写真を見せてくれた)でもね、戦闘機のパイロットだった主人は、戦争にも行かないのに、練習中に死んでしまったの。バカみたいでしょ」


ウースラは、ネブラスカに帰り、保険会社で、働き始めました。

そして、上司と恋に落ち、退職後テキサスに。

当時は、ガン患者でもありました。

夫は、ネブラスカに帰り、ウースラは、娘がいるテキサスに残りました。

とても可愛そうでした。

状況ではなく、自分が、可愛そうと思っている事。

でも、私達は、ウースラが、ビーにいる時は、今までと、全く変わらず、彼女に接し、彼女の話を呑み込みました。



本当に、

何が起きるか、わかりません。

「おばあさん」だけでなく

赤ちゃんだって、始めて立ち上がり

始めて歩き始め、

みんな、始めての経験です。

みんなそれぞれの人生は、

ずっと始めての日々です。

楽しみにして、生きましょ。

人の人生は、ほんの少しの参考にして。


山形から、第1弾のフキノトウが、届きました。

第2弾もあるそうで、楽しみ。


カキフライ、フキノトウ添え

菜の花の辛子醤油

湯豆腐は、ふき味噌で。


満月

赤かった。