テネシーのキルト仲間には、3つの柱が、あったように思います。
メリケイは、テネシー大学の英語の先生であり、キルト研究家。
ベッツ・ラムジーは、キルトコレクター、現代キルト作家、そして、キルトヒストリアン。
そして、ドットは、かつてキルトショップのオーナーであり、キルトの実務家。作家。
以前、東京ドームのキルトショーに、メリケイが、ドットのキルトの展開と解説に来たとか、ベッツから、聞きました。
さて、ドットの事。
彼女は、私のキルトの師であり、テネシーの母親でもありました。
ドットは、生年月日が、同じカールと、小学生からの友達で、結婚。二人の娘の内一人は、日本の米軍駐留基地にいたこともあり、その後、若くして亡くなりました。
そんな事もあり、私を、娘のように、可愛がってくれました。何かあると、家に呼ばれました。「バカみたいな大きなキャベツがあるの。取りにきて」「貴女の為のキルトの布が、見つかったよ」
ドットの家は、大きく、その2階は、キルトスタジオになっていました。片隅にベッドが置かれ「私は、ここで、キルトの夢を見ながら寝たいな」。「貴女は、何処に行っても、ここに来たら良いのよ」
ある日「私の持っているキルトを見せるから、来て」カメラ(当時はフィルムのカメラ)を持ってでかけると「カメラなんか役に立たないよ。何枚取りか、知らないけど、私のキルトは、もっとあるから😃」
本当でした。
中には、同じキルトが、三枚あるものも。
「どうして、同じものが?」「私も、カールも、一人っ子。一枚は、カールの母が。一枚は、私の母。そして、3枚目は、私が、作ったの。テネシーの伝統は、こうして繋いできたし、繋いでいかないとね。何も、新しいものを追いかけなくても、これも、大切な仕事と思わない?」
そして、ドットが、使い古し、カールが、修理をしたキルトフープを、プレゼントしてくれました。
あれから、30年以上過ぎましたが、私は、今も、毎日、そのフープで、キルトをしています。修理は、今は、主人の仕事になっています。
私が、テキサスに住んだ、ある日、ドットから、電話がありました。
「貴女にもらったロッグキングチェアに、座って、外を見てるの。貴女の欲しいものは、みんな上げるわ。取りに来ない?私は、癌になったの」
私は、行けなかった。
亡くなった後、ドットの家に行き、孫とドットの墓参りをして、「来た明かしにこうするのよ」という孫さんと、石を置いてきました。
私のキルト人生の始まりの人でした。
その前後に、何人ものキルターに、会いましたが、私にとっては、ドットが、始まりです。
写真は、ドットのキルトから、私が作ったものです。
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